心が苦しくならない為に、愛する人の死が怖い、失ったら生きてけない
生きていて
一番苦しいことは
自分自身
を責め続ける
「後悔」
の気持ち
亡くなった人
に対する
「懺悔の思い」
が
一生
自分を苦しめていく
生きていれば、
いずれ身近な人の死を経験
していくと思います。
人は必ずいつか死ぬので
避けては通れません。
考えるだけで辛くなるし、
想像もしたくありません。
私は幼い頃から、大好きな親や祖父母が、
いつか亡くなってしまうことは分かっていながらも
認めるのが嫌で考えないようにしてきましたが、
いつかやってくる家族の死への恐怖心を
心のどこかで抱え続けて過ごしていました。
でも
生きている人と接している現実の中で、
その人が
「いつかこの世から居なくなってしまう」
なんて思えなかったし、
「絶対死ぬわけなんてない」
などと思ってさえいました。
そんなふうに考えることができたのは、
身近で亡くなった人が
まだ居なかったからです。
でも絶対に認めたくなかった
心の中で恐れていたことに直面する日が
とうとう来てしまったのです。
私自身の身内の死は、たて続けに起きてしまいました。
2番目に産まれた子が
生後5ヶ月で突然死したのです。
自分が許せず、
辛さから逃れたいがために、
死んで逃げることばかり考えていました。
でも上の子はまだ1歳ちょっとでした。
私が居なくなったらこの子はどうなってしまうか、
だけど、生きるのが辛い。
自分が楽に逃げたいのに
見捨てられないまま、
「とりあえず今日1日だけ生きていよう」
と1日1日生きながら、
「いつまで頑張らないといけないのか」
「いつまで続くかな」
と、どうにか過ごしていたのです。
その矢先、
約3ヶ月後に、おじいちゃんが亡くなってしまいました。
おじいちゃんは一番私を可愛がってくれてたので
大好きなおじいちゃんにもう二度と会えないんだと思うと、
淋しくて、
とにかく淋しくて、
心に穴が開いたようでした。
不幸はまだ終わらず、
おじいちゃんが亡くなって1週間目に
私の父が亡くなりました。
親子で天国に逝ってしまったのです。
その頃の母、姉、祖母、私の精神状況は
最悪の状態でした。
無気力状態でも3人たて続けに葬式を出し、
誰にも会いたくなくても
大勢の人と顔を合わし
言葉を交わしていく。
亡くなってすぐお通夜や葬儀を行うことは、
悲しんでいられない時間を遺族に与えてくれる
ために、現実を取り戻すためにあるのかな
とさえ感じました。
外に出て、澄み切った青空を見たとき、
なんとも言えない悲しさ
がおしよせてきたことがありました。
こんなに心が苦しいのに、
どうして空はこんなに澄み切った晴天なんだろう
と辛かったのだと思います。
外の景色がグレーに見えたこともあります。
くすんだ灰色の世界でした。
身近な人を失ったことで辛いですが、
私の心の中で記憶として生き続けている
ので、その後も辛さを引きずってしまう
ので心が晴れることはないのです。
家族の死後、
残された自分が生きていかなければならないのに、
どうしても私を苦しめて消えることはない、
今でも苦しめ続ける
「後悔」
という
自分を責め続ける感情
があるからです。
死んでしまうなんて思いもしてなかった大事な人が
居なくなってしまったら
「こうしてあげてればよかった」
「どうしてあの時してあげなかったんだろう」
と、いろんな悔やみばかりが
脳裏を駆け巡るのです。
そんな後悔ばかりの感情が
心を苦しめることが
痛いほどわかったのです。
誰でも突然死んでしまう可能性はあります。
だから
「日頃から大切な人達には精一杯の自分で接していよう」
と心がけて生活しています。
どんなに面倒臭いときでも、
イライラすることでも、
大事な家族には一生懸命な自分で接していく
のです。
優しいからだとか、甘いから、
と思われてるはずです。
過保護にしてしまってるかもしれません。
だけど
後悔の苦しみを二度と味わいたくないから、
家族のために尽くしているのです。
それは
結局自分自身の為
なんです。
苦しむのが嫌だから、
心が弱いから、
苦しいことがあると生き辛くなるのが嫌だから、
なんです。
「自分の子を死なせてしまった罪悪感」
は、どんな状況であっても、
自分のせいなんです。
十字架を背負って生きています。
愛する人たちを失った心の痛みについては
今後も別のタイトルで書いていこうと思ってます。